天明寺概要
当寺は江戸中期の天明年間〔1781〜1788〕に開創されたことにより天明寺と名づけられたと伝えられておりますが、実際には歴代住職の墓誌に「恵弁 貞享三丙寅天三月廿三日」とあります。このことから推測すると貞享三年〔1688〕には小さな庵を掬んでひっそりと仏道を歩んでいたのかもしれません。
詳しいことはわかりませんが、現在、境内に残されている歴代住職の墓地は十一基ほどあります。
この中に「神通山隠居探隆」とあり、この「探隆」師は文化十三年〔1816〕吉井の延命院より碓氷郡八幡村〔現 高崎市八幡町〕大聖護国寺第三十八世住職に晋み、その後、文政五年〔1822〕に当寺に隠棲し、天保七年十一月廿九日に逝去しております。
このころは寺門は栄え、文殊堂が建立されたのは「天保卯年二月日」とあります。
そもそも大聖護国寺は京都の醍醐寺三宝院を本山とし、上野国南西部を中心に五十五ヶ寺ほど末寺を持つ地方本寺であり、東京音羽にある護国寺の前身でもあります。当寺はその大聖護国寺の末寺として真言宗の法統を受け継いでおります。
また、当寺は明治23年には群馬郡中央部唯一の尋常高等小学校が開校されております。清里、桃井、明治、駒寄、総社、元総社などの広い範囲から通学していたようですが、明治36年には清里小学校に高等科が併設され、それに伴い、廃校となりました。
現在は奈良県桜井市にあります長谷寺を総本山に真言宗豊山派に所属しており、ご本尊は「不動明王(ふどうみょうおう)」、正式名称は「太子山(たいしさん)神通院(じんつういん)天明寺(てんみょうじ)」と申します。
先祖供養
私たちは父と母から生まれました。その両親にも親がいます。
そうして先祖を10代さかのぼると1024人になります。
久遠の昔から数多の人間の縁によって一つの命が成り立っているのです。
そして、その命のつながりは未来に向かっているのです。
過去・現在・未来と三世にわたって紡がれている命の連続に触れることが先祖供養なのです。
自分のご両親や祖父母をはじめ、そして自分との縁をもった方たちと過去の親達の業(ごう)を供養することによって、現在の私たちの生活が正されるわけです。回向とは「まわりめぐらせる」という意味です。先祖に対する供養が回りめぐって現在の我々、そして未来の私たちの縁者に還ってくるのです。
水子供養
当山では水子供養をしております。
水子(みずこ)は、人工妊娠中絶や流産、死産により死亡した胎児のことです。
昔の日本では七歳までに亡くなった子どもは、もう一度生まれ変わってこの世で寿命を全うしてほしいとの願いや一人前の人間としてみなさないとの理由から、死者を浄土に送る仏教式の葬儀は行なわれなかったといいます。現在でも、水子の葬儀はおこなわれません。
しかし、もう一度生まれ変わってこの世で寿命を全うしてほしいという願いをこめて供養いたしましょう。たとえ、生まれてこずとも母親のお腹に宿った命は尊く、無限の可能性を秘めています。
この子が生まれていたらどんな人生を送ったのかと考えるとその悲しみや切なさは大変深いものがあります。また、水子は親に先立つ親不孝によって浄土に行けないとも、賽のの河原で迷っているとも言われていますが、地蔵菩薩によって救われると説かれております。
昔から、死んだ胎児に宿る霊魂である水子霊が祟りや霊障を引き起こすといわれていました ことのほか水子のたたりを気にされる方がいますが、仏教ではそのようなことを説くことはありません。
たたりなどを怖れるのではなく、この世で生を全うすることができなかった我が子に対して、申し訳ないという懺悔や浄土で幸せに過ごして欲しいという願いを持って供養をすることが仏教的と言えます。
そして、水子供養を通じて、命の尊さを学ぶことが大切です。
永代供養
赤城山を望む静かな環境の中、永代にわたり、お預かりご供養いたします。
【永代霊廟 (えいだいれいびょう)】
当山では『永代霊廟』がございます。身寄りがない方、継承者のない方、またはご事情により墓所がない方の為に永代にわたりご供養させていただきます。