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普門山 圓通寺 高ヒット
2009-8-7 18:36 投稿者: admin (記事一覧) [ 7083hit ]

圓通寺の歴史

 圓通寺はもと圓通庵といい、黄檗宗(おうばくしゅう)・弘福寺(墨田区)の開山・鉄牛道機和尚穏棲の地で、元禄年中(1688〜1703)に開創されたと伝えられていますが、その開創はややさかのぼり、鉄牛道機和尚が法弟・鉄関元参和尚に弘福寺を譲った貞享(じょうきょう)2年(1685)秋のことと思われます。

 「圓通院(庵) 本尊正(聖)観音ヲ安ス小庵ナリ元禄年中須崎村弘福寺開山鉄牛穏  棲ノ旧跡ナリ----」
                                        『新編武蔵風土記稿』

 この頃の圓通庵(圓通寺)の境内は、弘福寺の抱地とはいえ1260坪という広大なもので、本尊・聖観世音菩薩が安置され、弘福寺と本末関係を結ぶ黄檗宗寺院でした。開山・鉄牛道機和尚は日本黄檗宗の祖・隠元禅師の門に入り、後のその法弟・木庵禅師に師事し、隠元禅師の黄檗山万福寺開創を助け、全国に60余か寺を建立した高僧で、後に大慈普応国師の勅諡号を賜っています。また鉄眼道光和尚の『大蔵経』の刊行に助力し、千葉県の椿沼開拓の大業を成し遂げた禅僧として知られています。 延宝6年(1687)、弘福寺に住していた鉄牛和尚は下総に巡化し、椿沼開拓事業(『圓通寺雑記』参照)に着手しました。
 この大事業が完了するのは元禄2年(1689)のことで、この間、鉄牛道機和尚は開拓事業に携わる一方、芝・瑞聖寺などで宗要挙揚につとめた記録が残されています。圓通庵(圓通寺)は鉄牛道機和尚が江戸と下総を往復する際の中継地であり、休息地でもあったのでしょう。元禄元年(1688)、幕府によって古跡寺院、新地寺院の区別が定められました。
 これは寛永8年(1631)の新地建立禁止令を境として、以前に建立された寺院を古跡寺院、以降に建立された寺院を新地寺院といい、古跡寺院が災禍によって損壊または焼失した場合はその再興は認めるが、新地寺院も場合は一切認めないというのもです。 もちろん廃寺となったり潰寺となった場合もその再興は認められません。圓通庵(圓通寺)は貞享2年(1685)の開創で、新地寺院に属します。圓通庵(圓通寺)に穏棲した鉄牛道機和尚の学徳を慕って訪れる著名な諸士や文人墨客らがあとを絶たず、仏法や詩歌を論じたと伝えられていますが、これは鉄牛道機和尚が椿沼開拓事業を完了し、圓通庵(圓通寺)に常住した元禄2年(1689)から香取・福聚寺(千葉県)へ移るまでの十年ほどのことでしょう。しかし、鉄牛道機和尚が去ったことにより幕府により境内に一屋を残すのみで、取り壊されてしまいました。

 享保16年(1731)圓成和尚(弘福寺16世)により圓通庵復興がなされ、春江如昌尼が円通庵2世となり以来昭和20年まで尼僧が住することとなりました。
 昭和20年圓通寺の中興開山・大達智道大和尚(山梨県猿橋の宝林寺22世)が圓通寺に晋住し関東大震災、東京大空襲により焼失した境内の復興を果たしました。大達智道大和尚は木造の仮本堂を建て布教に専念、檀信徒数を増やし、ついに昭和42年、庫裡、本堂を建立し、その発展は目覚しいものがありました。
 圓通寺2世 幽妙達玄大和尚(佐藤達玄:駒沢大学名誉教授・文学博士、昭和25年〜平成15年)代には先師の意思により全面的な改築を計画し、本堂地下に墓地を併設した芸術感溢れる建物は、寺院建築の1つのあり方として建築界の注目を集め諸誌に紹介されました。
 現在、平成15年より3世天山大英大和尚(佐藤大英:元世田谷学園教諭・農学博士)が住職を務めています。

墓地 天井画 壁画

 圓通寺墓地の天井、壁面には現代美術作家(有森正)による仏画が描かれています。天井は梁に区切られて、大きな4画面と小さな4画面の計8画面に絢爛たる仏の世界を現出しています。壁面には、54体の仏と蓮の花などが描かれております。他の寺院、霊園にはない芸術的な環境の中で個性豊な墓石が建立されています。
 

曹洞宗について

曹洞宗の宗祖道元禅師(以下敬称略)の宗風の基本的立場は、佛教の開祖釈尊が坐禅により大悟したことを重視し、坐禅に宗教的生命を求めています。
釈尊の佛法は、菩提達磨(ぼだいだるま)によって、インドより中国に伝えられ、それを忠実に継承したのが如浄禅師であり、如浄の禅を日本に伝えたのが道元であります。
このように坐禅中心の佛法は三国伝来のものであり、釈尊の大悟に直結するものであります。

道元は鎌倉時代に永平寺(福井県)を開いて、曹洞宗の基礎を確立し、その禅風を全国的に発展させたのが太祖瑩山禅師であります。瑩山は道元の宗風に密教を導入して加持祈祷を行ったので、曹洞禅が庶民大衆の中に次第に受容されるようになりました。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐」で、ただひたすらに坐ることで、しかもその坐禅は「証上の修」といって、悟りの境地で行う坐禅であります。坐禅によって悟りを求める臨済禅とは、修行のありかたが根本的に異なっています。

                (普門山圓通寺前住職 佐藤達玄 識)
関東 )
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