寺泊山 法福寺

2009-8-11 12:01 投稿者:  admin

法福寺(ほうふくじ)とは

新潟県長岡市寺泊(旧寺泊町)にある日蓮宗の寺院である。山号は寺泊山。

天平宝字元年(757年)頃、越前国の泰澄が山頂に開創したのを起源とする。当初は法華堂と号していたが、いつのころか法華寺と号すようになった。
弘仁3年(812年)、最澄が寺泊を訪れ、天台宗に改宗される。
文永8年10月21日(1271年11月24日)、 佐渡へ配流される日蓮が途中の寺泊に到着する。このとき、日本海特有である冬の海風が強く、佐渡へ渡ることが出来なかったため(結果的に7日間)寺泊に逗留した。この間、時の法華寺住職が日蓮に会い心服し、自ら請いて弟子となり日傳と改名。日蓮を開山と仰ぎ、法福寺の寺号を頂いた(後日、佐渡へ渡った日蓮へ会いに行ったとき頂いたとする説もある)。なお、逗留中、日蓮は『寺泊御書』を述作するが、これに用いた水を汲んだ井戸が今でもかれずに残っており、硯水の井戸 と名付けられ大切にされている。
文亀元年4月6日(1501年4月23日)、火災。山頂より現在の活動拠点である中腹へと堂宇を移転する。
永正7年(1510年)、永正の乱で戦火を浴びる。
宝永3年(1706年)、日蓮が逗留された土地が石川家より寄進さる。
寛保2年(1742年)、このころの村鑑に「祖師堂。長三間半、横三間半、法福寺境内に御座候」とある。
寛延4年4月27日(1751年5月22日)、祖師堂類焼する。
寛政8年6月4日(1796年4月23日)、山崩れにより本堂損壊する。
文化元年(1804年)、このころ成立したと思われる風土記に、客殿、庫裡、番神堂、石鳥居、稲荷社、鐘楼、法華堂跡、(現在は松食い虫の被害にあって切り倒された)松、薬医門などが法福寺にあった、と書かれている。
文政7年12月(1825年1〜2月)、良寛の妹むら子(むら?)死去。法福寺墓地へ埋葬される。
慶応4年5月(1868年6〜7月)、水戸脱藩兵信夫善治(本名:水戸藩家老職、佐藤図書)死去。法福寺墓地へ埋葬される。
明治5年11月11日(1872年12月11日)、類焼。堂宇が灰燼に帰す。

『寺泊御書』とは?

 信者である富木常忍(ときじょうにん)氏へ宛てた、日蓮聖人のお手紙のことです。寺泊の地で書かれたため、そう呼ばれています。その時 使われた水を汲んだ井戸が、硯水の井戸です。文永8(1271)年10月22日、日蓮聖人御歳50歳の著述です。

 『寺泊御書』は真蹟(実物)が残っており、重要文化財に指定されて、千葉県市川市中山法華経寺に大切に保管されています。
 富木常忍氏は のちに僧(常修院日常上人)となり、自邸をお寺にします。これが、今の法華経寺です。これで、「なぜ『寺泊御書』が法華経寺にあるか」が、納得頂けることでしょう。

 つまり、『寺泊御書』は、今の法華経寺がある所に住んでらした富木常忍氏へ宛てたお手紙であり、富木氏が受け取って以来、大切に保管され続けているのです。

 内容や位置づけについては、以下、日蓮宗事典に拠ります。
(原典では、日付は漢数字)

 「聖人は、文永8年9月、鎌倉幕府の勘気を受け佐渡へ流罪の身となった。10月10日相模依智を発ち、同月21日に寺泊に着き、ここで渡島の順風を待つ間に著したのが本書である。聖人は、富木氏が供奉させた入道を鎌倉に帰すにあたり、本書をことづけたのである。冒頭に相州依智から越後国寺泊津に至る旅の様子を述べ、如来滅後における法華経弘通の難を論じて、現身に受けつつある大難の意味を説き明かす。即ち度重なる受難こそ法華経と自己との符合を意味するもので「日蓮は八十万億那由他の諸の菩薩の代官」として法華経弘通に身命を捧げているとし、法華経の行者としての自覚の高揚を示されている。
 これは翌文永9年2月述作の『開目抄』の伏線となるもので、佐前最後の遺文であると共に、佐渡期の聖人教学へ至る橋渡しとして重要な意味を持つものである。」

主な行事

* 1月3日 新年祝祷会、檀信徒総会、檀信徒新年懇親会
* 1月25〜31日 寒行
* 3月彼岸中日 春季彼岸会
* 5月〜6月頃 団参
* 6月第4日曜日 開山会
* 8月1日 盂蘭盆会
* 9月彼岸中日 秋季彼岸会
* 10月 檀信徒懇親旅行
* 11月第2日曜日 お会式
* 11月27日 お会式(祖師堂)
* 12月13日 唱題会(祖師堂)
* 12月31日 除夜の鐘

* 毎月第3金曜日 お経会
* 不定期 万灯講(仮称)練習
* 不定期 写経会

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